「そうだ、京都行こう」と思ったときに試してみたい5つのナダル

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ナダルが新しい体験を提供してくれそうだ

世界ランクトップの座に長く君臨し、一時期はBIG4ではなく、一人抜けた存在であるとまで言われていたノバク・ジョコビッチがダニエル太郎に負けるという波乱が起こりました。

序盤こそは、ジョコビッチのペースであるシーンもあったものの、第一セットを接戦のダニエル太郎が取ったことの意味合いは大きかったかも知れません。

さて、今回ダニエル太郎による大金星の様なニュースが飛び交い、確かに選手の格からすれば、ダニエル太郎とジョコビッチの間には大きな差があったもののでは、昨日の内容がそれだけ素晴らしいものであったかといえばそうというものでもないですね。

ダニエルは確かに勝ちはしましたが、その内容がトップクラスの選手とやり合う事が出来るだけの高度なレベルのものであったわけではなく、あくまでその辺りはランキングに合ったない様であったと思います。その意味では、ダニエルが勝ったというよりは、ジョコビッチが負けたという印象ですね。

この辺りについては、ダニエル本人が重々承知でしょうし、勝利後のコメントをみても、本調子ではないジョコビッチに対して勝てたという旨の発言をしています。とは言え、ダニエルにとってはなかなかないトップクラスの選手との戦いであり、不調ではあるとはいえ、ジョコビッチに勝てたということの意味合いは大きいと思います。

今後同じ様にトップクラスの選手とやるときの自身にもなりますし、そういうトップクラスの選手とやる際のコートの雰囲気などを肌に感じ、そして、序盤押されながらも粘ってセットを取り、勝ちきったという経験は今後のダニエルのテニスに良い方向に影響が出てくれば、一気にダニエル自身も皮が剥ける可能性というのもあるのかもしれません。

さて、負けたジョコビッチですが、正直言っていいところがなかったと言っても良いかもしれません。

打つ際のフォームが第一に崩れていますし、ボールを最後まで追いきる事もできず、(諦め)、第3セットにおいては、完全にスタミナ切れである印象を覚えました。

全盛期のジョコビッチというのは非常に完成された選手であり、高いディフェンス力と、ショットのコントロール、スピードの良さと全ての水準で高いレベルであった選手だった様に思えます。

ビッグサーバーではないですが、サーブそのモノも非常に強烈なものをもっており、BIG4同士の戦いなどでも、その強力なサーブで圧倒するシーンなんかも何度もみた様に思えます。その頃のサーブがあれば、現状のダニエルではそのサーブに対応する事すら難しかったのではないか?という意味でダニエルがボールを拾えているという事そのことが、既にジョコビッチの衰えというのを感じさせるところであるということかもしれません。

ジョコビッチがここまで調子が上がらないのは、一つはもちろん怪我の影響はあるのかもしれません。

テニスは非常にハードなスポーツであり、怪我して調子を落とした中で、再起した選手というのは非常に稀です。ましてや、トップクラスとなれば、スケジュールもハードであり(ランキングに影響するため)なかなか怪我を完治させる暇もないということがしばしば起こりえます。

昨年ジョコビッチ同様に後半戦を休んだ錦織選手ですが、今シーズン復帰後なかなか調子が戻らない辺りをみても、元々怪我の多いタイプの選手でしたが、その辺りの難しさがある様に思えます。

その意味ではナダルとかが異常なわけですね。あれほどハードに負担のかかるスタイルであり、一時期は全く参加できない状態でありながら、再度ランキング1位までに上り詰めるなんてことは、他の選手ではなかなか出来ない話でしょうね。なんだかんだいっても、ナダルやフェデラーこの辺りの選手としての異質さというのは改めて今回のジョコビッチの状態などをみても感じられる話かも知れません。

ただ、ジョコビッチが調子上がらない理由は、単純に調整不足というところがあると思います。

もちろん、調整不足の理由に怪我があるというのもありますが、それ以前のジョコビッチの発言にも、以前の様にハードに練習をしなくなったというものがあり、今回スタミナが持たなかったところをみても、調整そのものがトップクラスと争うレベルまでに至っていないというところではないでしょうか?

この、以前の様にハードに練習をこなしていない、ストイックさがなくなってしまった、という事の意味合いは、ジョコビッチにおいては非常に大きな問題であり、このストイックさが戻らない限り、ジョコビッチがまた以前の様に輝くのは難しい様に感じます。

そもそもジョコビッチという選手があれだけ世界のトップとして輝き続ける事が出来たのは、そのストイックさによるものだったと考えています。

それは、ジョコビッチのプレースタイルをみてもそうですね。

ジョコビッチといえば、そこまで拾うのかという高いディフェンス能力と無尽蔵とも言えるようなスタミナで最後までパフォーマンスの落ちないプレーを続け、一つ一つ高い精度のプレーを続ける事で結果を出してきた選手です。

その高いディフェンスや無尽蔵なスタミナというのが持ち味であり、その持ち味は、ストイックである姿勢によって築き上げられたものです。少しでもモチベーションが下がってしまえば、以前は届いていたボールに対しても諦めてしまうかもしれません。テニスに対するストイック差が、高いディフェンス能力を支えるモチベーションになり、高いモチベーションを保つ事によって、最後まで諦める事のないプレーを続ける事が出来たと言えるからです。

ダニエル太郎との対戦についていえば、そのジョコビッチらしさというものとは正反対のテニスだったと言えます。現状のままテニスをするというのであれば、モチベーションが戻ってくる事は難しく、以前の様なストイックさによる高パフォーマンスを望む事は出来ないと思います。

ジョコビッチが本来の姿を取り戻すには、もしかしたら、いっその事一定期間本当にテニスから離れてしまうくらいをした方が却って良いのかもしれません。

ジョコビッチとは対照的に、ベテランであるフェデラーの好調が今シーズンも光ります。

まさか、あの年になって全豪オープンの連覇を果たすとは思いませんでした。

フェデラーの場合、復活し始めたのが2015年くらいからだったでしょうか?そのくらいからSABRなどの戦略も取り入れ始めていた様に思えます。

体力などが落ちる中で以前のプレーが出来なくなる中での、フェデラーのテニスへ
する飽くなき研究の姿勢というのは本当にすごいですね。

SABRの話もそうですし、2016年からはイワン・リュビチッチをコーチに迎え、片手バックハンドの高い打点、また、ライジング技術を磨き、以前にも増して攻撃的なゲームを展開出来る様になりました。

この事は、ベテランであるフェデラーにおいては非常に重要な話ですね。なんだかんだいっても、フェデラーはスタミナでは若い世代には勝ちきれません。フルセットになるとスタミナ切れが出てきてしまいます。また、それが1試合で終わるのであればともかくトーナメントであるが故に、スタミナは出来る限り使わない戦い方というのをする必要があります。

錦織選手がトップにいけない理由として、トーナメントでストレート勝ちが出来ず、それが故に上位とあたる終盤にベストコンディションでは出来ない事なんてことがあげられたりしましたが、フェデラーの場合尚更その影響は出てしまうわけで、よってより攻撃的なスタンスで、ゲームを素早く終わらせる必要があるというわけですね。

元々オールラウンダーでなんでもできる選手でしたが、加齢とともにそのプレースタイルを変える事が出来ているからこそフェデラーはなお世界のトッププレイヤーであるといえるのかもしれません。

ジョコビッチに話を戻しますと、ジョコビッチも怪我を抱え、徐々に年齢的にもきつさが出てくる様な状態になりつつあります。加えて以前の様にストイックさが亡くなってしまった中で、では、以前と同じプレースタイルを続けて、結果が出るのかといえばそれは難しい様に思えます。

この辺り、ジョコビッチについても現状の自分に合ったプレースタイルに徐々に変更していく必要性というのもあるのかも知れませんね。

ナダルについて私が知っている二、三の事柄

घोरघोरतरेभ्यश्च ॥२३॥
ghoraghoratarebhyazca ॥23॥
【さらに[1]ゴーラゴーラタラ達(極めて恐ろしき者達)に[2]】
[1]翻訳の調子の都合上、前で訳したがcaは、並列の意の「と」である。aghoraaとghoraaとghoraghorataraaと言う三つ組の並列ということである。
[2]ghoraghoratarebhyaは、ghoraghoraで反復複合語の「非常に恐ろしい者」という意味であり、それに比較級のtaraで「[非常に恐ろしいもの]よりさらに非常に恐ろしい者」ということである。つまり「マジで目茶苦茶すげぇ恐ろしい奴」というニュアンスの複数与格である。「aghorebhyaH thaghorebhyaH ghoraghoratarebhyazca」とは、「非畏怖相の様々な形姿を有し、さらに畏怖相の様々な形姿を有し、またさらに空前絶後の非常なる畏怖相の様々な形姿を有するルドラ神に」ということである。
 私事で恐縮ではあるが、筆者は基本的に怖い者知らずである。なぜならば、愚案ずるに、恐らくそれは筆者が、冥土もかくや馬鹿だからであろう。とは言え、つらつら慮ってみるとその主要な原因をここで具体的に述べることも可能である。中学校二年生ぐらいの時のことだ。筆者は、眉間に深い皺を寄せ、沈思黙考の体で、人の生死について昼夜眠らず、居眠りしながら思索していたことがあった。そしてその時、深い思索の旅寝の果てよ秋の暮れ、驚天動地の情動面における一大真理に、はたとハタ坊よろしくぶち当たったのである。何を隠そう(いや筆者は何も隠すまい!)、その情動面における一大真理とは、すなわち筆者は、死ぬのが若干怖かったということ、これである。しかしこれは中学生の筆者にとって恥辱以外のなにものでもなかった。一介の大和男児(やまとおのこ)に生まれておきながら、なおかつ死ぬのが怖いなどということが、お天道様は許しても、筆者が自分に許していいのかどうか、これは大いに氷解しない大疑団であった。そこでタイタニックなみに、氷解しない大いなる疑問の氷山に向かって筆者は一大体当たりを決意したのであった。
    すなわちとりあえずシミュレーションしてみようかと。筆者は古今東西のあらゆる最悪の死の情景を想像して、それに歯を食いしばり耐えてみせると力んでみた、寝る前のお布団の中でのことである。筆者は縛られて胴体を真っ二つにされてみたり、ご町内を引き回しにされた上、打ち首獄門にされてみたり、転んで頭を打って死んでみたり、核爆発で溶かされてみたり、やくざに拉致されて東京湾や駿河湾、日本海にオホーツク海、太平洋に大西洋と、コンクリート詰めで沈められたり、オビワン・ケノービにやられたダース・ベーダよろしくマグマに沐浴してみたり、首吊りしてみたり、腹をアジの開きよろしくかっ捌いてみたり、あらゆる死の可能性を試みたのである、お布団の中でのことだが。そして筆者は二つ目の真理として、情動面における死の恐怖という漆桶をぶち抜く勢いで、発見をば光明ならぬ、光明をば発見したのである。それはすなわちどんな苦しみも死ねば終わりだということ、すなわちこれである。死ぬ時は、死ぬほど苦しくても死ねばその苦しみも所詮終わりなわけで、これは全ての死の共通分母的真理である。そして十を知って得意がる筆者はさらに悟ったのであった。『葉隠』や『五輪書』においては、武士道とは死ぬことと見つけたり、見つけなかったりと述べられているが、死というものは、畢竟死ぬ時までのその過程の苦しみの想定が少なければ少ないほど忌避されるが、死ぬ時までの苦しみの想定が大きければ大きいほど、その死は甘美な救済となるということ、これである。これを筆者は「想像力における死の苦しみと忌避の反比例の法則」と今名付けた。また一般命題として言えるのは、「人はいつも最悪を想定して生きる二足歩行の動物である」ということである。そしてこの方程式と一般式より導き出されるのは、「人生は一度っきり、死んだら終わりだ」式のいわゆる断滅論者は、死を自分の思考から除外し、なおかつ忌避し最悪のもとして考える故に、死んだら終わりだと考えがちということである。つまり彼の想像力は、死を最悪のものと見なし、忌避するが故に、想像力をそれ以上働かせず、断滅的な死を最終的に到来する最悪なる災厄として想像し、天国を信じるお人よしを嘲りながら、浅はかな彼の死を最後のものとして受け取ろうとするのである。しかしその根底には、分析されずじまいの死への意味なくタブー化された恐怖があり、それも煎じ詰めれば彼の臆病さの現れなのである。しかるに他方でもって死の恐怖を一度、
服するやいなや、「いつなんどきでも死んでやる、かかってこいや」式の蛮勇が発生することになる。しかしここで勝小吉なみの蛮勇を奮って東海道を暴れ回り、鹿島神流のよろしく他流試合勝手次第の彼もまた、死がはたして本当に苦しみを終わらせる救済なのか、一抹の不安を抱くようになる。「本当はもっと最悪のシナリオがあるのではないかしらん?アタシ騙されているのでないかしらん」式の疑問である。そして様々なデータを集めていくうちに、更なる最悪のシナリオがあることに人は気づく。死ぬのはもはや何も怖くなくなった、でも何度も何度も生と死を永遠に無意味に反復して、本当は死ねないならばどうしようという若きショーペンハウアー的悩みである。これが永劫回帰であり輪廻の思想である。そしてニーチェは何度でもかかる永劫回帰としてのこの無意味な生の反復に繰り返しイエスと言って生きることを説いた。これがニーチェの永劫回帰思想である。 そしてこのような反復横跳びならぬ反復再生の思想の可能性から人は統計的なデータを取りはじめ、一定の法則や周期性を発見するに至る。これがつまりカルマの法則である。何だか話が悠長かつ壮大に進み過ぎたが、中学生の時の筆者の話に急激に戻すと、筆者はそんなこんなで中学時代の死のシミュレーションの結果、死の恐怖を克服して恐れ知らずになってしまったのである。何とも嫌な中学生ではある。だからそういう点では、死の恐怖を克服しているので、ヒュ~どろどろ式に「非常に極めて恐ろしき者達」とか言われでも、何ともピンとこないのであり、「何ゆうてはるんっすか」というインチキ関西弁めいたもののひとつも使いたくなるわけである。つまり一切合財煎じ詰めて、筆者の言いたいことはこうである。死も魂の断滅も輪廻も永劫回帰も分析すれば何も恐れる要素はないのであり、従って安心召されよということ、これである(しかしこの筆者の怖いもの知らずのところは、実際は、ゴーラゴーラタラであるシヴァ神の化身とされるハイラーカーン・バーバーが弟子に与える恩典としてのアバヤダーナの影響のようにも思える、参照)。
 前回、我々はナーローの六法の根幹技法であるチャンダーリーの火の観想の練習段階である、①脈があると想定して観想すること②文字を想定して観想すること③瓶風を伴い観想する仕方を順に見てきた。ここまで習熟すれば、あとは実際にチャンダーリーの火を燃やしてみることになるが、その際に筆者からは、三脈四輪ではなく、余計なお世話ではあるけれども、三脈六輪での瞑想を提案させて頂いたわけである。
    ちなみにこのチャンダーリーの火の瞑想の筆者自身の効果だが、プラーナーヤーマの能力が飛躍的に向上して、『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』で言われているプラーナーヤーマの吸気:保気:呼気=16:64:32マートラーというものが普通に出来るようになった(参照)。筆者はこれまでせいぜいこの半分ぐらいがやっとであった。要はきちんとイダー、ピンガラー、スシュムナーの三気道を視覚化してそれをきちんと細やかに利用してプラーナーヤーマを行えばそれほどこれも困難ではないのである。そして呼吸を止める保気(クンバカ)の際に必ずスシュムナーにのみプラーナを入れ、残りのイダーとピンガラーはきちんとナーローの六法でいう「除去」を行って、プラーナを残さないのがコツである。しかしこれも肺活量そのものが極端にその能力が向上したというわけではなくて、ゆっくりと気道に入れて、中央気道で保ち、ゆっくりと反対の気道を使ってプラーナを出すという細やかな身体操作ができるようになったに過ぎない。今までどれだけ雑な呼吸法をしていたかよく分かるというものである。また9ヶ月前はチャンダーリーの火の瞑想を行うと身体が後で不調になったが、今は非常に爽快である。とは言えビンドゥアムリタ・システムは起動しないままで、滴が落ちてきてはいないようである。
   話を戻して、ではそもそもなぜチャンダーリーの火を燃やす必要があるのかというと、それは性器から息風を呼び込み、臍のチャクラにおいて燃焼させることで、性的エネルギーを、上昇する内的な炎と光のエネルギーに変換させて、それでもって覚醒を得る為である(女性であってもナーローパの奥さんの覚醒者ニグマが『ニグマの六法』を伝えているくらいであるから同様である)。意図せずクンダリーを覚醒させてしまった、以前も紹介したことのあるシュリーナガルのは、自己の体験から以下のようにその考えを披露する。
私は脊椎下部に、身体全体につながっている神経を刺戟している急速で微細な動きをはっきりと感知していたが、これに対する私の考え方はこうである。つまり、目に見えないある機構の働きで、休眠状態にある器官が、それまで何ともなかったところで急に機能し始め、精液を高力価の光り輝く微細な生命素子に変換させて精髄に沿う気道や神経繊維などを通して、他の方法では達しえない頭脳をはじめ諸器官に送り、それぞれの細胞を賦活させたにちがいない。
ゴーピ・クリシュナ著『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社 P166
    それではその燃やし方を詳しく見ていこう。実際にツォンカパが述べるチャンダーリーの火の燃やし方は以下のようなものである。
 まず③の瓶風の瞑想をしながら、更に臍と心臓と喉と頭頂の四輪にアン、フーン、オーム、ハンの四字を一挙に瞑想し視覚化する。次に秘密処(性器)の輪に存在するプラーナによって、「火を揺るがすチャンダーリーの火の自性であるアンを燃やす光明は、ドゥーティーの中から上に向かって、フーン・オーン・ハンの三
字を溶かしていって、臍のアン字に降らして、それと無差別となって倶生歓喜の自性の雫を見て心を保つのである。」(P117)という。ここでいきなり性器部分が秘密処の輪として付加されていることに我々は気づく。どうやら三脈四輪といいながら実際には三脈五輪で実践するようなのである。しかしスヴァーディシュターナの位置は言及がなく、火は秘密処から臍の輪を経由する息風によって臍の輪のアン字を燃やすとされる。ともかくこの秘密処と臍の輪の間のところでアン字を燃やす炎となったチャンダーリーの火は、いくつかの燃え方の段階を示すようになる。 
    兆しが現れ、チャンダーリーの火が燃える仕方としては以下の五つに区分されている。①草食動物の渇愛(陽炎)のように現れる②煙りの形を有する③蛍と同じ④灯火が燃えるような形⑤形としてはしっかりしたものではなく、雲を離れた虚空のように現れるという五つである。これは光りかたを表している。
 次に燃えかただが、アヴァドゥーティーの中で燃える仕方としては、①臍と秘密処(性器部分)から燃えるかドゥーティーの外で燃えること②身体の底から燃えるか、肉と皮の中間のように上から燃えること③熱の広がりの狭いことと大きいこと④熱が上に入ることがゆっくりなのと速いもの⑤熱が厚いのと薄いことなどの相違があり、臍と秘密処で燃えること、身体の底から燃えること、燃える場所が狭いこと、ゆっくりと燃えること、熱は厚いことが優れているとされる。黄疸が増えて、楽しみより苦しみが大きい時はうまくいっていないのである。 
    菩提心が溶けて四歓喜を生起させる仕方としては、頭頂部から喉に逆さまのフン字が溶けて、喉のオーム字に溶け入る時に歓喜が、そのオーム字が胸のフーン字に溶け入るときに最勝歓喜が、胸から臍のアン字に達した時に特別歓喜が、臍から秘密処(性器)の先端に達した時に倶生歓喜が生じるとされている。これは逆観であるが、この順番からさらにもう一度、息風は再上昇する。それは順観と言われ、下から上に堅固になる四歓喜が生起することとして述べらているものである。
変化輪として歓喜と、最勝歓喜は法輪に住し 受容〔輪〕として歓喜と、倶生歓喜は大楽〔輪〕は逆観と説かれて(P125)
 このような上昇と下降が何度か繰り返されことにより、16回もの歓喜を得るとも言われる。しかしここで一つ問題がある。ツォンカパは秘密処の先端で歓喜が留まり外に放出されてはならないと説明し、それでなければ、倶生歓喜は生じないと述べているのである。秘密処(性器部分)にプラーナが止まっている時に、それを外に放出してしまう危険とは、つまり射精の危険のことである。となるとこの場合に、秘密処で倶生歓喜が発生する時に修行者は勃起していることが自ずから推論されるのである。そこで射精しそうになった時の対策方法が述べられることになる。以下がそれである。
自らを本尊として明らかにする状態から足を趺坐にして、両手を胸の前で組んで、両眼は上に向けて強く戻し、足と手のそれぞれの指はよく強く握りしめて、心は天辺の頭が上向きのハム字の上を所縁にして、口に長母音であるフーンを強く唱えることを二十一回ほどの間に唱えてから、何れかから戻ったその場所から脊髄に近いところから天辺に行ったと思念して、最後に柔らかい瓶風を保ち身体を強くなく揺すって、心は諸々の菩提心(精液)を全ての脈の場所に散らしたと思念することを何回も行う。(P129)
 不謹慎な話で恐縮だが、チベット最強の高僧であるツォンカパやガンポパが倶生歓喜の発生の為に、男根を勃起させながら眼を上方に向けて射精を必死に我慢して、フーンフーン言いながらこの運動をしている図を思い浮かべると、ちょっと滑稽趣味があって、空海と最澄の『』貸せ貸さない問題のようになかなか味わい深いものがある、下ネタだけれども。それにしてもである、一度賢者となりタイムを取って、冷静に考えてみると、男根だの勃起だの射精を我慢しろだのするなだの一体何を筆者までもがムキになり、コロチキのナダル風に目を上に釣り上げ論じているのだろうと我に返ってふと疑問に思うのである。しかし苦しい弁解を許して頂ければ、筆者は何も好き好んで、男根だの勃起だの射精を我慢しろだのするなだの、そうした下の話をしたいわけでは全然なくて、これもひとえにチベットの高僧であらせられるツォンカパ法師がこんなことを力説していらっしゃるからそうなったのである。そこのところだけはきちんと紳士淑女である読者に向かい、筆者は誠心誠意、誤解のないようにはっきりしておきたいわけである。大事なことだからもう一度繰り返すけれども、筆者は何も好き好んで、男根だの勃起だの射精を我慢しろだのするなだの、そんな下の話をしたいわけでは全然なくて、これもひとえにチベットの高僧であらせられるツォンカパ法師がこんなことを力説していらっしゃるからそうなったのである。
 そんなこんなで射精を我慢をする方法まで懇切丁寧に老婆心から教えてくれる慈悲深いツォンカパ法師ではあるが、これにより筆者は、長年疑問に思っていた一つの謎に別の方面から一つの光明が射したことを感じている。以下の写真を見て頂きたい。
    ツォンカパ経由という、人の思いも寄らない斜め87度からの垂直落下式鋭角証明をこれよりご覧に入れる。上掲の人は、ご存知我等が『パーシュパタ・スートラム』の生みの親、パーシュパタ(獣主派)の開祖である。そしてこの人は、自己申告に基づけば過去世がミラレパであるハイラーカーン・バーバーの1~2世紀ぐらいのこれまた同様の過去世の姿であると言われている。しかしハイラーカーン・バーバーは過去世でキリストの教師の一人であったとも語っていて、もし仮にラクリーシャがキリストと同時代の人であったと仮定すると(弟子の年代などから恐らく実際は1世紀中期以降の人であろう)、キリストはラクリーシャに教えを受けた可能性すら考えられるわけである。しかし、これはトンでも話であり、想像の中でだけ可能性として楽しんで頂くべき内容である。筆者が見積もるその蓋然性は、ハイラーカーン・バーバーの自己申告に基づく様々な可能性の、そのまた組み合わせのお話でしかないので、たかだか3パーセント弱である。しかしこれで時代小説でも書いたら面白そうではある。
    話はやや横道にズレてしまったが、筆者がいいたいのはこんなことではなくて、ここで注目して頂きたいのは、必ずと言っていいほどラクリーシャの像が勃起した姿をしているということである。シヴァ神が様々な理由によりパールヴァティー女神の女陰と共にリンガ(男根)として崇拝されていることは、何度もこのブログで論じ、その象徴的意味なども解説してきたつもりであるが(参照)、シヴァ神を直接描き、彫像を作る場合、直接勃起した姿で表されているのを、筆者は見たことがない。しかしプラーナ文献でシヴァ神の28代目のアヴァターラーとされるラクリーシャは、いつでもこのように勃起した姿なのである。筆者は様々な可能性を考えた。単純に教祖とシヴァ神の象徴である男根を組み合わせて、その化身であることを示す為の複合的な象徴言語の表現であるとか、瞑想において敢えて男根を勃起させることによってエクスタシーを発生させ、それで瞑想しているのではないかだとか。しかしこれと言って確定的な見解は見出だせなかったので、今後の課題として保留して自分の記憶の底の棚に長い間しまっておいたわけである。しかし、ここで究竟次第的な脈管を用いて瞑想をし、チャンダーリーの火の方法論でもって倶生歓喜を発生させる為には、男性性器の先端にプラーナを留める必要があり、ツォンカパが力説するようにその時に射精する危険が生じるまでに、生理現象として不可避的なる勃起現象が生じてしまうことが今回我々に認識されたわけである。これとは対照的な話として思い浮かぶのが、例えばお釈迦様であるが、お釈迦様は馬陰蔵相と言って、平常時の馬のように男性性器が腹部に収縮して隠された状態になっていたと言われている。これは中国の仙道においても、ある種の修業を積むと、身体が童子のようになって性器が収縮し胴体に入り込んでしまうとされている。中国武術でこうした方法を取り入れている所だと、子供を作り終えて、もうこれ以上いらないやとなるまでは、こういう修業はしないように言われるそうである。つまり精子や精液を作る一般男性が有する生殖能力が全て還精補脳で頭部に巡ってしまって、生殖能力が失われてしまうのである。筆者などは、子もなく、子供を作る相手もなく、無駄に生殖能力だけ維持されているわけである。別に生殖能力の一つや二つ失われてもどうでもいいやぐらいの自暴自棄かつ、いつも朗らかなマサイ族的投げ槍な態度でもあるし、生殖能力を利用する機会もあるかどうかも分からない状態でもあるし、チマチマとケチ臭く生殖能力を維持しても仕方がないので、ここは男らしく綺麗さっぱりとなくなったらなくなったでしょうがないわいぐらいの軽い気持ちであったが、どうやらこうした馬陰蔵的状態となって還精補脳的にエネルギーが上昇するのとは別に、ツォンカパが必死に射精を食い止めなくてはいけないと力説するような、勃起能力をフルに維持活用した上で、瞑想において覚醒を成し遂げる道があるようなのである。筆者が推測する、ラクリーシャの勃起した姿というのは、本当は象徴といったものでは全然なくて、実際にラクリーシャが、ウッジャイニー近くの木の下でほとんど裸か一衣の状態で勃起しながらツォンカパよろしく倶生歓喜的なものを生起させて瞑想している牧歌的な姿を、当時の何も知らないウッジャイニー周辺の純朴な人々が目撃し、インド人もビックリ仰天、開いた口が塞がらないやとばかりに、開祖ラクリーシャのその姿に去勢不安と共に鮮烈なるファルス的衝撃を受け、そのカルチャーショック的印象の生々しい記憶によって代々形成された口承伝統の上に成立したものではないかと考えるに今回至っている。しかしながら『パーシュパタ・スートラム』全文にこうした倶生歓喜を生起させるような脈管を使った技法というのは1ミリたりとも出てこないのではあるけれども。そして我々はこの振り上げた刀ならぬ、勃起した返すファルスをもってインダス文明のパシュパティの印章が、やはりこうした技法の連綿と続く証左であり、まさしくこの像が最古のパシュパティ像であると見做し得る地点に到達したと確信するのである。
 まずは日本のインダス文明研究家であり考古学者の近藤英夫の2011年に同成社より出版された『インダスの考古学』から、パシュパティの印章に関する部分を見ていこう。これはおそらく現時点におけるインダス考古学のパシュパティの印章に関する無難な通説とみてよいだろう。
跏趺座像は、多くは牀(胡座用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人間の周囲には動物が描かれている。もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である。腕いっぱいに腕輪をつけ、上半身に幾重もの首飾りをつけ、下半身には男根が表現されている。その周囲にはサイ・トラ
・ゾウ・スイギュウ、そして牀の下にはアンテロープが描かれている。中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、“シヴァ神の祖型”と考えられている。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも1000年近く後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。(P78-79)
    インダス文明において男根崇拝はその遺物にも多数残されている。実はヒンドゥーのリンガ崇拝の伝統は、インダス文明から連綿と続いていて、その主流の流れにアーリヤ人が持ち込んだルドラ=シヴァ神が後に合流したものと言えるであろう。アーリヤ人にとって男根崇拝者(ziznadeva   リグ・ヴェーダ  7巻21章5節、10巻99章3節)とは先住民への敵意を伴った言葉であった。そしてなぜ男根崇拝がインダス文明において派生したのかも、ある程度朧げながら推測がつく。恐らくインダス文明において、シャーマン的な地位にあった者は、チャンダーリーの火に見られるような倶生歓喜を発生させる技法を用いて、男根を勃起させて、瞑想をし、内的火を統御し、シッディを使い、シャーマン的技術である呪術的飛翔を行ったのだと思われる(参照)。こうした技術を目の当たりにした人々にとり、インダス文明のシャーマン(祭司)のそそり立つ男根は、生殖の為のものでは全然なくて、シャーマンのカリスマ的権威そのものと映ったであろう。それは生殖能力が有する豊饒性の象徴といったような現代的な物の見方を覆す、もっとリアルなものであったに違いない。そそり立つ男根がシャーマン技法に基づく神秘と奇跡そして高度な意識の存在に接続していたのである。
 筆者は、インダス文明のパシュパティの印章と言われるものが、現在近藤英夫の見解以外にどのような評価になっていて、また海外の専門家がそれぞれどのような意見を持っているのか知らない。従ってここでは筆者の見解しか述べることはできないがまとめてみよう。
    まずインダス文明の印章を検討するのであれば、一度シヴァ神については忘れてもらわなくてはならない。シヴァはサンスクリットで吉祥の意であり、ルドラ神の異名である。そしてルドラ神は言うまでもなくアーリヤ人の神である。インダス文明は、アーリヤ人とは起源を異にしていることは明らかである。従ってインダスの印章が、ルドラ神とは全く関係のない神格的対象を表しているのは明白である。然るにその印章の当該対象の人型は勃起した男根を持ち、何らかのアーサナ的姿勢を取っている。そして時代は下って、パーシュパタ派の開祖であるラクリーシャは同様に勃起した男根を持ち、こん棒を持つ姿で現されている。そしてこの勃起する男根こそが、チベット密教のツォンカパ経由で密教用語で言う倶生歓喜としてのエクスタシー技法に伴う、一つの生理現象の表現である可能性が今回判明したわけである。これは大きなカテゴリーに分類するとシャーマンの技法の一つである内的火の統御に関連する。インダス文明の印章は、獣への生成変化を経たシャーマンなのか、あるいはその崇拝の対象となる神格であるパシュパティかは我々には不分明ではあるが、そうした宗教的文化現象の文脈の中で読み解き得る対象であるのは間違いない。勃起する男根を伴うシャーマン的技法を媒介として我々はそこにパーシュパタがインダス文明経由であることの明らかな証左を見る。そしてインダス文明において明白に男根崇拝が認められる以上、シヴァ神のリンガ崇拝とヨーギンとしての技法の多くは、インダス文明由来であると考え得るわけである。従ってシヴァ神は二つの支流が合流したものである。アーリヤ人のルドラ神とシヴァという名前、そしてソーマによる陶酔文化や『リグ・ヴェーダ』の長髪行者の修行体系、そしてもう一方の支流であるインダス文明、またそれを担った人々は、勃起する男根を伴ったシャーマン的技法とその男根崇拝を有していた。ヨーガは明らかにこの二つの流れの合流ポイントで生じたものである。従ってシヴァ神には二つのプロトタイプがあると結論づけ得る。ルドラ=シヴァとパシュパティ=シヴァである。故にパシュパティの印章と呼ばれるものは、起源1~2世紀のパーシュパタのパシュパティの祖型であり、まさしくシヴァ神の祖型に他ならない。ちなみに最初に男根崇拝が始まったのは、ダールカの森(ダールカーヴァナ)とされている()。それはナーゲーシュワラのジョーティルリンガの所在地でもある。ダールカヴァナの所在地について筆者は6年以上思索してきたが、これは明らかにリンガ崇拝盛んなるインダス文明の地が有力であると今になってようやく自信をもって言える。よって筆者は現代のクリシュナ神の聖地であるドゥワールカーこそが、元来、ダールカーの森と言われる場所だと推論する。ダールカーはドゥワールカーの古名であろう。よって3つとも筆者は遊びに行ったことがあるが、12のジョーティルリンガの真実のナーゲーシュワラは、アウンダのナーガナートでも、アルモーラーのジャーゲーシュワラでもなく、ドゥワールカーのナーゲーシュワラだと考える。しかし実際のナーゲーシュワラの場所はクリシュナのドゥワールカーの街同様、海の底であろう。
(現在のナーゲーシュワラ寺院と、ダールカーという羅刹女が住んでいたとプラーナで言われ、16ヨージャナに渡る広大なダールカーの森がインダス文明以前の先史時代に存在したであろうと目されるドゥワールカーからナーゲーシュワラに行く途中の平原、筆者撮影)

ナダルのこだわり必須知識

沢山のブロガーの方々が素敵な記事を書いてくださるので、いつもは書かないのですが、もし興味を持って下さる方がこの稚拙なブログにいらしたらと思いました。

夢のアイスショー、その名の通り夢のような素晴らしい演技だった。

ただただ感謝と涙…。゚(T^T)゚。

Notte Stellata (星降る夜) サン=サーンス作曲の「白鳥」にイルヴォーロが歌いました。皆さん、ご存知のことですが、2016年世界選手権の時にロシアのレジェンドといえるタチアナ・タラソワコーチから是非滑ってほしいと言われた曲です。その曲にデヴィッド・ウィルソンが素晴らしい振り付けをし、Yuzuくんがエキジビションで滑りました。

あまりにも美しくて言葉を失う…ただ何度も見てしまう芸術作品です。歌詞のテーマは「愛」故郷への愛を込めて、24時間テレビで滑ってくれました。

Yuzuくん曰く「最初に聞いたときは「胸の奥からわきあがるものがありました」「優しく包み込むような感じ」を表現したい。」

こちらは、写真家能登直の作品です。まるで月に見守られている天女…

何故、こんなに羽生結弦というスケーターに惹かれるのだろう。別に手を組んで歩きたいとかいうレベルではない。彼の生き様にひどく惹かれるのである。いつも真摯に全力を尽くす。才能に恵まれている事に胡座をかかず、常に先見てその向こうを目指す。そのブレない姿勢、言動、努力に限りなく惹きつけられる。ほかの方はわからないが、私にとって全力でその時の最高を目指すというところがラファエル・ナダルと重なるのである。

ファン心理は恋と似ていると思う。ドツボに嵌った本人以外には⁇という事も多い。ちょっと違うのは1人ではなく同士(?)がいることかなぁ

ここからも長いので、御用とお急ぎ出ない方はお立ち寄り下さいませ。

この姿勢、この思い。

本当に沢山の人々、ファンの思いを感じてくださっているのだと思う。

忘れない、隠さない、ちゃんと知るべき・知らせるべき。

今年の24時間テレビのテーマは人生を変えてくれた人

アイスリンク仙台が家のそばになかったら、スケートはやっていなかったかもしれない。でもスケートをやらなかった人生が1番考えられない。

そして、彼自身が若い本田大翔君の人生を変えた人となった。

Yuzuくんがいつも見る人の心に灯すのは「希望」

究極には愛を分かち合う。

いつも周りの人々、ファンに感謝を忘れない。

だからこんな言葉を贈られた。「きっと、これから私たちも大丈夫です。」

汗と涙と感謝と… 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

ずっとずっと好きなだけ滑り続けてください。いつまでも心から応援しています。

長い話を最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございます。

皆様の心にもいつも希望のともしびが灯続けますように心よりお祈りしています。


ナダル 関連ツイート

RT @stop_abe_seiji: 元々右利きだったのに幼少期にわざわざ左利きに矯正した神聖パヨ戦士ナダルが準決勝でまさかの途中棄権敗退。アベの謀略と見て間違いない。テニス界の右傾化が止まらない。
RT @katorena_710: スタバで、、、、
が面白すぎて寝れない🤣
ナダルさん面白すぎる🤣
一方、もうひとつの準決勝はナダル VS デルポトロ、こちらもかなり面白くなりそうな組み合わせだったけど・・結果は何と、ナダルの途中棄権でデルポトロが全米オープン決勝進出!2セット目の前半で右足太もも辺りを痛め、2セット目が終わりベ… https://t.co/VK8gTI4m71
ナダルってこんなに面白くないねー
何がしたいか全く分からなさすぎて逆にすごい人w

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