酒と泪と男と山陰
♡ご縁ある皆様へ♡
8月26日は魚座の満月🌕なのです。
12星座の最後。浄化 手放しパワー増大!
不要なモノ、人、環境など整理整頓!
なんのために??
もちろん!新しいスタートのために!
8月のパワーはすごいぞ〜 スタートの波🌊に乗ろう
当日はおまけの数秘からみた【 これから】も
お話しますね(*^^*)
意味ある数字✨の世界もをご堪能ください
おかげ様であと3名様のご案内となりました。
会場の都合上 増席することが難しいので
お早目のご検討をおススメします♡
■お申し込みはコチラ⇒
そして、この度 TCカラーセラピストが
4万人を突破しました!
詳しくは本部ホームページを!
皆さんも
カラーセラピストになりませんか
こちらもご覧くださいませ↓
■場所:パルメイト出雲 和室
■講座費:19000円+α (下の*部分をご確認ください)
■お申し込みはコチラ⇒
お問い合わせ
*通常出張講座の場合は、出張費2000円+交通費(計5000円弱が相場)を頂いております。今回は特例として出張費は無料。交通・宿泊費を受講者人数で割る形になります。大体一人当たり5~9800円が+αの部分になる予定。(例:満席で1人約5000円)人数が多ければ多いほど一人当たりが少なくなりますので、どうぞこの特例の機会にお誘いあわせ上ご受講くださいませ★8月17日に最終のご案内をお届けします。
↑ TCカラーセラピーとは何かを
わかりやすく解説しております。
どうぞこちらの記事もご参照くださいね♪
答えはいつも自分の中にある。
いつも誰かのために頑張っている方ほど
このカラーセラピーの世界で癒しを体感できることでしょう
逆にいうと
いつも自分のことを後回しにしていると
うまい循環が起こらず常に欲求不満な状態に…
どうぞ自分を満たす心地よさを
感じてくださいね♡幸せは伝播します。
〜自分に優しく大切に〜
当サロンのコンセプトです
講師プロフィール:くわはらりな
自宅サロン★ぷりずむ★オーナー
2012年 TCカラーセラピスト資格取得
2014年 TCトレーナー資格取得
講師業スタート
現在、当サロンの卒業生は110名以上となり
資格取得講座は300回以上開催
(数秘&カラー®の講座含)
周りの皆様の支えによりカラーセラピストとして
6年間 順調に活動させて頂いております。
今年1月に新サロンOPEN
専業主婦からの起業や自宅サロン経営など
私の経験と知識が必要な方へ届いたら嬉しいです。
勿論 仕事も責任をもって取り組んでいますが
家事や娘達のことは何よりも優先しています。
「両立できる自分サイズの働き方」を目指している方の
ヒントになる出会いとなれば幸いです。
ひらがなで「くわはらりな」で検索
日々の活動はアメブロで発信中。
その他SNSは何もやっておりません
どんな些細な事でもかまいません!
疑問質問どんどんお寄せくださいね!
皆様との出会いを楽しみにしております♡
お問い合わせ
■お申し込みはコチラ⇒
島根県出雲市にて
TCカラーセラピー講座
この有難い機会を頂きましたこと
心より感謝申し上げます
まだある! 山陰を便利にする6つのツール
今回も城巡りアーカイブスで。
広島県を巡っているシリーズの続きです。
岩国から始まったこの日の城巡りはいよいよ安芸高田市の旧吉田町へ。
安芸高田市にある多治比猿掛城跡です。
このお城はかの毛利元就が幼少期から青年期を過ごしたお城としてよく知られています。
この城にいた時代、5歳で母を、10歳で父を失い、11歳で兄は京へ出征し在京4年間。
その間にわずかな所領は家臣・井上元兼に横領されて城を追い出される始末。
継母・杉大方のみが彼のよすがでありました。
初陣だった有田中井手の戦いも、妙玖夫人を娶ったのも、ここの城主だった時代です。
この4歳から27歳までのこの城での経験が、後の元就を形造ったのでしょう。
○多治比猿掛城
安芸の国人領主でも決して大身とは言えなかった毛利氏の属城なので規模は大きいとは言えません。
登城口です。車をどこに停めたかちょっと記憶がありません。
ただ、困った記憶もないので・・・。
この写真の左奥に上へ上る道があります。
登り始めてすぐにある案内板。
しっかり書かれていて参考になります。
元就両親の墓所。
正面が父・弘元、左手が母・福原氏のもの。
もともとここには弘元の菩提寺があったそうです。今はなくなっていますが。
そして、母の墓は福原城の福原氏墓所にあったものを、大正10年にここに移したとのことです。
お二人とも亡くなって400年以上経ってから同じ地で眠る事になったのですね。
そこから登っていくと小さな曲輪群があります。
しかし、ほとんど進入できません。3月初頭でこれですから夏はとても・・・。
この曲輪群の上、本丸を目指します。
夏でなければ問題ないでしょう、これぐらいなら。
山頂部、本丸に到着です。
本丸のすみに櫓台跡と言われる遺構があります。
土塁にしては連続性がないし、明らかに高いですからね。
本丸跡にある案内板。
あいにくの天気のため、景色は全く望めませんでした。
裏の山から伸びる尾根を2段の堀切で切り取り、尾根先のピークに本丸を置いているのがわかります。
山城としてはかなり単純な造りではあります。
本丸に近い方の堀切。かなり深いですよ。
これで裏山から尾根伝いに攻め下られるのを防ぐ仕掛けです。
もともと本丸のあるところは尾根よりかなり高い位置にあって、かつ堀切で防衛しています。
本丸全景。けっこう広いんですよ。
先ほどの櫓台らしき跡。
よく見ると土でなく岩のように見えます。
いつもならあちこち地面を踏んだりして確かめるのですが・・・。
標高376mの高さの本丸にも時折雲がかかる天気。
最終目的地をこの後に控え、気もそぞろで下りました。
実際には登城道がかかっていない出丸などがあり、きれいに整備されていればもっと見どころのあるお城跡のはず。
毛利元就に縁深いお城なので、できれば今少し整備していただきたいですね。
ただ、夏以外なら問題なく登城できるでしょう。
時間もよかれあしかれあまり費やさないと思います。
位置関係的には吉田郡山城を訪れた際にはぜひセットで登城してみてください!
○多治比猿掛城とは?
郡山城跡などと共に、「毛利氏城跡」として国指定史跡となっています。
「猿掛城」とのみ呼ばれる事もありますね。
毛利氏の居城・郡山城から多治比川沿いに44キロほど遡った場所にこのお城はありました。
かつては郡山城から、石州路に出る際に通らなければならない要衝の地でした。これは石見方面から郡山城方面に攻め込む際も同様の事が言えます。
現に、尼子晴久が郡山城を攻めた際は、この猿掛城からも見える風越山に最初の本陣を置いています。
北方から郡山城を目指す時、この多治比一帯は通らねばならない場所でした。
城は標高376m比高120mの、尾根の頂点に本丸を置く山城です。
城の背後、尾根伝いのより高所に物見丸と呼ばれる名前そのまま、物見の場所を設けています。
本丸からそこまでの間に大きな堀切を2本引き、裏手からの攻め手を封じる造りとなっています。
城の曲輪のほとんどが本丸を中心とした中核部に置かれ、写真で紹介した寺屋敷曲輪群もその一つ。
その曲輪群から竪堀と谷を挟んで出丸(登城道がついていませんでした)が置かれていました。
山腹に館があったと考えられ、それが後に弘元の菩提寺となった場所でしょう。
築城年代はわかっていません。
元就の父・毛利弘元が隠居城とした事で文献に現れていますので、築城者はそもそも弘元ではないか、とも言われています。
弘元は1500(明応9)年に家督を長男・幸千代丸(後の興元)に譲って、まだ4歳の松寿丸(後の元就)を連れてこの多治比猿掛城に移ってきました。
もし麓に一説の通り館があったとすれば、もともと山上にあった城の麓に平時の隠居所を設けたのだと思います。
あるいは、城と一緒に弘元が築いたのかもしれません。
弘元は在城6年、1506(永正3)年に39歳の若さで亡くなってしまいます。
そこで、隠居所であった館の代わりに菩提寺を建立し、墓所としたのではないでしょうか。
弘元亡き後、城は次男・松寿丸に受け継がれました。
継母・杉大方の手配のおかげで、彼はこの城で元服。
大内義興に従って京に在陣していた興元から「元」の字を頂戴して「元就」と名乗りました。
彼は「多治比元就」を名乗りとし、家中では「多治比殿」と呼ばれていました。
多治比殿と呼ばれていた間、この城で元就はいろいろな人生の区切りを迎えています。
兄・興元、甥・幸松丸の早世がなければ、おそらくは一生を安芸国の山間の国人領主の一氏族で一家臣の「多治比元就」として終えていたでしょう。
もちろん、ごくごく一部の歴史文献にすら名前が出てくる事はなかったかもしれません。
ただ、少なくとも興元が死去して幸松丸が継ぎ彼が後見役となってから、
毛利本家を継ぐまでの間にはもう「毛利元就」の名は山陰の雄・尼子経久や西国の主・大内義興にも知れ渡るようになっていますから、多少なりとも後世の我々が知りうる人物になっていたかもしれません。
南の大内・北の尼子に挟まれ、右に左に従属先を変える日々だったかもしれません。
ひょっとしたら、成長した幸松丸(彼が大内義隆より偏諱を受けて「隆元」と名乗っていたかもしれませんし)に疎まれ、追い出されたり謀殺されてしまっていたかもしれません。
それを大内氏や尼子氏が、吉川氏や高橋氏を使って裏で糸を引く可能性だってあったでしょう。
戦国時代、叔父と甥の家督争いなど掃いて捨てるほどあります。叔父の方に人気や人望があったり、武名があればなおさらです。
元就は何といっても初陣で武田元繁を討ち取った武将ですから。
ま、これは異母弟・相合元綱にもいえることですが。
元就はこの城で成長し、
父を見送り(母はすでに体調の問題か多治比には同道せず実家の福原城に帰り、弘元隠居後まもなくそこで亡くなっています)、
兄を見送り
初陣して
妻を娶り
一男(後の隆元)、二女(長女は後に高橋氏の人質となって殺害・次女が後の宍戸隆家室の五龍の局)をもうけ
甥を見送り
27歳で毛利12代となって郡山城へ移っていきました。
・・・・・・
多治比猿掛城はその後、確たる城主は見当たりません。
ただ、廃城になってはいません。
1563(永禄6)年に毛利隆元が長府で大友宗麟との和睦を取りまとめてすぐ、出雲国に出陣中の元就や弟達に合流するべく向かっていた時に一泊しています。
寄ろうと思えば家族のいる郡山城に立ち寄って一緒の時間を過ごす事も難しくなかったでしょうが、律儀な隆元は一刻も早く手勢を連れて本隊に合流したかったのでしょう。
また、戦陣にあって家族に会う事ができない弟・元春や隆景、高齢の元就を慮ったのかもしれません。
結局、この時は郡山城から幸鶴丸(後の輝元)がこの城まで出向いてきて隆元に会っています。
この時の事を、輝元はきっと忘れる事ができなかったでしょう。
この多治比猿掛城での時間が、輝元が父・隆元と過ごした最後の時間となってしまったのですから。
隆元はその後出雲国に向かう途中、備後の国人・和智誠春の饗応を受けた翌日、安芸国佐々部にて41歳で急死してしまったからです。
遺骸はその場で荼毘に附されており、死因から何から事実以外はすべて謎に包まれています。
当時幕府より5ヶ国の守護に任じられていた大名の当主の後始末としてはあまりに不可解。
これを輝元はおろか元就らにも図らない(時間的にも、元就や輝元、兄弟の心中を考えてもありえない)まま、周囲の人間だけで処理してしまったのですから・・・。
この一件は、恐らく輝元以上に元就の心に深い恨みの感情を生み、後の隆元側近であった赤川元保らの粛清や和智誠春らの誅伐を引き起こしました。
よってこの城は、隆元・輝元父子が共に過ごす最後の時間の場にもなったのです。
城が廃城になった資料もないため、少なくとも輝元が本拠を広島城に移す時までは郡山城の北方を扼する城として存続していたものと思われます。
そして、遅くとも輝元が安芸国を離れる際には廃城となったものと推察されます。
○行き方
車でないと厳しいかと思います。
中国自動車道から行くのであれば、高田インターを下ります。
下りた出口交差点は左折して県道64号線を西へ。
突き当たる「高田インター西」交差点も左折し、県道6号線を南下。
右手に郵便局がある交差点を右折。ここは確か無信号です。県道319号線に入ります。
ちなみにそのまま右折せず県道6号線を走ると郡山城下に出ます。
先ほどの交差点を右折して400mぐらい走ると左手に城跡があり、道路にも案内看板があったはずです。
正確な位置を把握できないまま向かった自分でも問題なく到達していますので、このルートならば大丈夫かと。
下道ならば国道54号線を使います。
「安芸高田消防署前」という信号のある交差点を北へ入り(広島市街地方面からなら左折)県道6号線に入ります。
先ほどの郵便局はこんどは左手、交差点の向こう側になります。ここを左折します。
あとは一緒です。
なお、このルートだと郡山城下を抜けてくることになるので、登城順は考えてもよいかと思います。
私は小倉山城から下道が不安だったので、中国自動車道を使って移動しています。
○鈴尾(福原)城
おまけです。
毛利氏の有力支族、福原氏の居城だった鈴尾(福原)城跡。元就の母の実家であります。
元就は母の里であるここで産まれたとする説が有力です。
この案内板をよく見ると、「広俊」という名前が3代も出てきます。
毛利一族にとって、始祖・大江広元の「広」の字は大切な字であり、有力支族には名前に「広」を頂いている人物が多いのです。
福原8代・広俊の娘は、毛利弘元の正室であり興元・元就兄弟の母。
案内板にある13代・広俊は、岩国城の吉川広家のところで触れた、長州藩立ち上げ時の筆頭家老だった人物です。
幕末、長州藩兵を率いて禁門の変を戦い、後に幕府に対するその責を負って自害した福原元たけ(にんべんに「間」、通称:福原越後)は24代当主になります。
当日はこの案内板の後ろの登城道の入口のフェンスに鍵がかけられていて登城できませんでした。
今は登城できるのでしょうか。
位置的には郡山城の南側になります。まとめて回れる距離感です。
ぜひ吉田を訪れた際は郡山城と共に、今回ご紹介した2城も登城してみてください。
今のままの山陰には可能性がない
山陰 関連ツイート
https://t.co/n6tQ7oOQnR