悩んでないで引き継ぎの激安をチェック
モノを書く、という手段がとても好きだ。
好きというよりはもう、これは魂に刻み込まれた、わたしの表現の軸だと思っている。
最初にモノ書きを始めたのは、中学の頃。どっかに書いたかな? 当時は少女漫画全盛期で、周りの女子はみんな漫画を描いていた。でも私は絵が描けなかった。
頭の中には壮大なストーリーだけは詰まっていたから(妄想癖)それを小説化した。
そうしたら面白くなって、すっかりハマった。
当時は手書きのみ、レポート用紙に書き溜めていた。B罫の行間が好きで、A罫だとうまくいかなかった。
暇さえあれば毎日毎日描いていた。だから腱鞘炎になった。授業そっちのけだった。
—–
余談だが私は今時珍しい「かな入力」の人だ。一番最初にパソコンで遊んだのが小学低学年の時だったから。
英語なんぞ知らんで生きていけた頃。だから「かな入力」で全てのキーボードの位置を覚えてしまったのである。
懐かしのFM-7よ…。
そして、ブラインドタッチは一切できない。完全オリジナルのキー打ちのまま、30年以上過ごしてきてしまった。おかげでスピードは尋常でない。しかし手の動きを見ると大抵の人に驚かれるのであった。
—–
話を戻そう。
そのまま、小説を書く→ワープロを手に入れる→ヲタク街道まっしぐらで、同人誌の小説を書く、オリジナルを書くという人生を送ってきて現在に至るが
ブログ
という文化、実は最初まっっっっっっったく馴染めなかった。
全然書けなかったのである。
ちょうどアメブロに移行して1ヶ月後くらいに一気に知名度が上がる出来事があり、そこから一気に「楽しくなったから」ブログが書けるだろうと思っていた。
だが、書けない。最初の頃は1記事に3時間、4時間かけていたのではなかろうか。
ひとりで朝から晩までカフェをやってたので、家に帰ってからのその時間がもったいなくて、ほとんど記事を書かなかった。
おかしいな。書くことが得意なはずなのに、なんで書けないんだろう。
その理由は、2018年に明かされた。つまりは、今年だ。
今年の念頭、1日5記事を目標にブログを書こうと決めた。
しかも「質のいい記事」だ。これはブログが苦手な私としては大変なチャレンジだった。
実際、5記事はとんでもなくハードルが高すぎて、一度しかクリアできなかったのだけれど、毎日3記事から4記事は書いていた。寒がりなのでね、冬の間はほぼ動かないんもんで、ひたすら家にこもってブログを書き続けた。
そして、ある時、ふっとタガが外れた瞬間がわかった。
表面張力でギリギリだった水面から水がこぼれ落ちるように、ブログへの抵抗が一切なくなったのだ。
私がブログに強い抵抗を持っていたのは「読者との距離が遠すぎる」ことが理由だった。
その証拠にLINE@はすらすらと書けるのだ。ブログを書いていない時期も、LINE@だけは毎日配信していた。
つまり、自分が重要視していたのは、読者との距離感だったのだ。
では、ブログでの距離感をどう縮めるか。
向こうから寄ってきてくれる仕組みではなく、自分から寄っていくようにすればよいだけであった。
よく「たったひとりのお客様に言葉を届けるつもりで書きましょう」って言われるよね。
あの意味がとんとわかっていなかった。
それは、量をこなしたからこそ、私の血肉となって体感レベルで実感できたのだ。
—–
思い出したが、リクルートキャリアに入社した頃、当時38歳。
引き継ぎ期間わずか3日ほどで、社内システム4種類と現在受注している案件全て(尋常でない量)、エントリーシートの取り扱いから担当部署、専門でやること、面接の手順から警備への手配などなど、大量の業務を一気に教えられた。
しかも教えてくれた本人も、わずか1ヶ月で退社することになったため、わからないことが多すぎた。
全体像を掴んで分析していく私の手法は全くもって使えなかった。
文字通り尋常でない業務量。
仕事の終わりが見えないわ、締め切りに間に合わないわ、新しい案件が途切れずに来るわで、珍しくパニックに陥った。
後にも先にも職場で本気で泣いたのはあの時だけだった…家でもよく泣いていてJJに「こんな姿見たことない」と言われる始末。
同僚と上司に相談して、ちょっと仕事を減らしてもらって2週間後。
あっという間に慣れた。
その1ヶ月後には、部署内で一番多くの案件をこなせるようになった。
おかげさまで、辞めるときに月間MVP賞(社内で最も功績を挙げた人におくられる賞)をいただきましたよ。
それはやっぱり「一気に大量の業務をやってみた」ことと「慣れ」と「目的地の明確化」であったと思う。
—–
質より量、量より質、というが、それはアホみたいな話で私は「質も量も同時に一気に高めていけ」と思う。
大抵高い目標を掲げて絶対にクリアできない、というのが私のパターンなので、最初の時点でもうハードル高すぎて発狂しそうなくらいの目標を掲げる。
ブログ記事なら、1日3記事、質のいいものが書けたらサイコーと思うなら、敢えて5記事に設定。
7割クリアできたら最高、という位置で目標を設定している。
能力の限界値超えは、常に恐ろしいほどの負荷の上から生まれる。
幻冬社の編集者である箕輪厚介さんが著書の中でこう書いている。
「1年間で100の力が使えるとしたら、最初の2ヶ月で90を使い切ってしまうくらいの気合いで走るといい。そこにインパクトが生まれる。圧倒的なまでに量をやるとキャバシティが増えて、また100の力がプラスされる。中途半端ではダメだ」
私の周りは、圧倒的に量をこなしている人しかいない…。またしても変態しかいない証明だ。
私は人一倍プレッシャーに弱い。だからかけ方を工夫しただけ。
「できなかった」ことに逃げるのではなく、工夫しているだけ。
「質と量は反比例する」
それは人の常識にすぎない。そこにいたらいつまでも同じ世界しか見えないのだ。
「質も量も高めていく」ことで、見えて来る別の世界がある。
そのための記録に大変オススメなのが手帳である(笑)。
2019年は3冊併用。
定番ロルバーンとお初の。のシールを貼って愛用中。
そしてほぼ日手帳WEEKSになんと!! が出た!!
手帳の話は、また後日。
1,350円
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うわぁ~、引き継ぎの宝石箱
ウェブエンジニアなら知っておくべき引き継ぎの3つの法則
モノを書く、という手段がとても好きだ。
好きというよりはもう、これは魂に刻み込まれた、わたしの表現の軸だと思っている。
最初にモノ書きを始めたのは、中学の頃。どっかに書いたかな? 当時は少女漫画全盛期で、周りの女子はみんな漫画を描いていた。でも私は絵が描けなかった。
頭の中には壮大なストーリーだけは詰まっていたから(妄想癖)それを小説化した。
そうしたら面白くなって、すっかりハマった。
当時は手書きのみ、レポート用紙に書き溜めていた。B罫の行間が好きで、A罫だとうまくいかなかった。
暇さえあれば毎日毎日描いていた。だから腱鞘炎になった。授業そっちのけだった。
—–
余談だが私は今時珍しい「かな入力」の人だ。一番最初にパソコンで遊んだのが小学低学年の時だったから。
英語なんぞ知らんで生きていけた頃。だから「かな入力」で全てのキーボードの位置を覚えてしまったのである。
懐かしのFM-7よ…。
そして、ブラインドタッチは一切できない。完全オリジナルのキー打ちのまま、30年以上過ごしてきてしまった。おかげでスピードは尋常でない。しかし手の動きを見ると大抵の人に驚かれるのであった。
—–
話を戻そう。
そのまま、小説を書く→ワープロを手に入れる→ヲタク街道まっしぐらで、同人誌の小説を書く、オリジナルを書くという人生を送ってきて現在に至るが
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という文化、実は最初まっっっっっっったく馴染めなかった。
全然書けなかったのである。
ちょうどアメブロに移行して1ヶ月後くらいに一気に知名度が上がる出来事があり、そこから一気に「楽しくなったから」ブログが書けるだろうと思っていた。
だが、書けない。最初の頃は1記事に3時間、4時間かけていたのではなかろうか。
ひとりで朝から晩までカフェをやってたので、家に帰ってからのその時間がもったいなくて、ほとんど記事を書かなかった。
おかしいな。書くことが得意なはずなのに、なんで書けないんだろう。
その理由は、2018年に明かされた。つまりは、今年だ。
今年の念頭、1日5記事を目標にブログを書こうと決めた。
しかも「質のいい記事」だ。これはブログが苦手な私としては大変なチャレンジだった。
実際、5記事はとんでもなくハードルが高すぎて、一度しかクリアできなかったのだけれど、毎日3記事から4記事は書いていた。寒がりなのでね、冬の間はほぼ動かないんもんで、ひたすら家にこもってブログを書き続けた。
そして、ある時、ふっとタガが外れた瞬間がわかった。
表面張力でギリギリだった水面から水がこぼれ落ちるように、ブログへの抵抗が一切なくなったのだ。
私がブログに強い抵抗を持っていたのは「読者との距離が遠すぎる」ことが理由だった。
その証拠にLINE@はすらすらと書けるのだ。ブログを書いていない時期も、LINE@だけは毎日配信していた。
つまり、自分が重要視していたのは、読者との距離感だったのだ。
では、ブログでの距離感をどう縮めるか。
向こうから寄ってきてくれる仕組みではなく、自分から寄っていくようにすればよいだけであった。
よく「たったひとりのお客様に言葉を届けるつもりで書きましょう」って言われるよね。
あの意味がとんとわかっていなかった。
それは、量をこなしたからこそ、私の血肉となって体感レベルで実感できたのだ。
—–
思い出したが、リクルートキャリアに入社した頃、当時38歳。
引き継ぎ期間わずか3日ほどで、社内システム4種類と現在受注している案件全て(尋常でない量)、エントリーシートの取り扱いから担当部署、専門でやること、面接の手順から警備への手配などなど、大量の業務を一気に教えられた。
しかも教えてくれた本人も、わずか1ヶ月で退社することになったため、わからないことが多すぎた。
全体像を掴んで分析していく私の手法は全くもって使えなかった。
文字通り尋常でない業務量。
仕事の終わりが見えないわ、締め切りに間に合わないわ、新しい案件が途切れずに来るわで、珍しくパニックに陥った。
後にも先にも職場で本気で泣いたのはあの時だけだった…家でもよく泣いていてJJに「こんな姿見たことない」と言われる始末。
同僚と上司に相談して、ちょっと仕事を減らしてもらって2週間後。
あっという間に慣れた。
その1ヶ月後には、部署内で一番多くの案件をこなせるようになった。
おかげさまで、辞めるときに月間MVP賞(社内で最も功績を挙げた人におくられる賞)をいただきましたよ。
それはやっぱり「一気に大量の業務をやってみた」ことと「慣れ」と「目的地の明確化」であったと思う。
—–
質より量、量より質、というが、それはアホみたいな話で私は「質も量も同時に一気に高めていけ」と思う。
大抵高い目標を掲げて絶対にクリアできない、というのが私のパターンなので、最初の時点でもうハードル高すぎて発狂しそうなくらいの目標を掲げる。
ブログ記事なら、1日3記事、質のいいものが書けたらサイコーと思うなら、敢えて5記事に設定。
7割クリアできたら最高、という位置で目標を設定している。
能力の限界値超えは、常に恐ろしいほどの負荷の上から生まれる。
幻冬社の編集者である箕輪厚介さんが著書の中でこう書いている。
「1年間で100の力が使えるとしたら、最初の2ヶ月で90を使い切ってしまうくらいの気合いで走るといい。そこにインパクトが生まれる。圧倒的なまでに量をやるとキャバシティが増えて、また100の力がプラスされる。中途半端ではダメだ」
私の周りは、圧倒的に量をこなしている人しかいない…。またしても変態しかいない証明だ。
私は人一倍プレッシャーに弱い。だからかけ方を工夫しただけ。
「できなかった」ことに逃げるのではなく、工夫しているだけ。
「質と量は反比例する」
それは人の常識にすぎない。そこにいたらいつまでも同じ世界しか見えないのだ。
「質も量も高めていく」ことで、見えて来る別の世界がある。
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おかしいな。書くことが得意なはずなのに、なんで書けないんだろう。
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大抵高い目標を掲げて絶対にクリアできない、というのが私のパターンなので、最初の時点でもうハードル高すぎて発狂しそうなくらいの目標を掲げる。
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「1年間で100の力が使えるとしたら、最初の2ヶ月で90を使い切ってしまうくらいの気合いで走るといい。そこにインパクトが生まれる。圧倒的なまでに量をやるとキャバシティが増えて、また100の力がプラスされる。中途半端ではダメだ」
私の周りは、圧倒的に量をこなしている人しかいない…。またしても変態しかいない証明だ。
私は人一倍プレッシャーに弱い。だからかけ方を工夫しただけ。
「できなかった」ことに逃げるのではなく、工夫しているだけ。
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「質も量も高めていく」ことで、見えて来る別の世界がある。
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