中級者向け売り子の活用法
売り子の新作登場
(フローラに扮するジャンヌ・デュ・バリー)
『ヴェルサイユのばら』、『マリー・アントワネット』などでも有名なデュ バリー伯爵夫人。最近では『イノサン』も人気なようですね
悪役として描かれることの多い彼女ですが実際はどんな女性だったのでしょうか?
デュ バリー夫人の本名はジャンヌ・ベキュ。
1743年8月19日生まれで父親不明。
6歳のとき母親に連れられてパリへ。
母親アンヌには軍の食料調達商人で大金持ちの恋人デュムソーがいました。
母の愛人デュムソーはジャンヌを目に入れても痛くないほど大変可愛がっていたそうです
ジャンヌには幼いうちから人に可愛がられる才能があったようですね。
9歳のとき、ジャンヌは母の愛人デュムソーのおかげで、サント・オール修道院へ入ることができ、まともな教育を受けることができたのです
(マリー・ジャンヌ・ベキュ。1743〜1793)
その間、国語、歴史、音楽、デッサンなどを学び、ジャンヌが修道院からでできたのは15歳
ジャンヌはブロンドの長い髪がよく似合う顔形に、淡いブルーの瞳は優しく、唇はいつも微笑んでいるかのように愛らしく、何より素晴らしかったのは陶器のような光沢のある白い肌をした美少女に成長していました
当時の人々の肌が病気や衛生状態などによってシミ、シワ、できものができていた時代、ジャンヌのような美しい肌と歯は稀でした
修道院を出てすぐジャンヌはとあるお金持ちの未亡人の侍女となりました。
未亡人の開くサロンで初々しいジャンヌはたちまちやってくる男性を虜にしてしまいます
なかでも熱心なのが未亡人の兄弟たちで、ジャンヌはいとも簡単に体を許したようです。
それを知った未亡人はジャンヌを解雇します
その後ジャンヌは彼女の運命を変えることになるラビーユ経営の「ラ・トワレット」で働き始めます。
そのお店では高級な服の生地や仕立てをしており、そこで働くジャンヌの美貌はまたまた評判を呼び、愛らしい売り子ジャンヌを目的にお金持ちの男性たちが群がるようになります。。
モテモテのジャンヌは休日の日曜日になると店で知り合った男性をとっかえひっかえしながら火遊びを楽しんでいました。
とにかくジャンヌは男好きする恋多きフランス女性で、ジャンヌの数多の愛人のひとりにジャン・デュバリー子爵がいました。
デュバリー伯爵に見初められたジャンヌは瀟洒な館に住み始めました。
デュバリー伯爵は〝詐欺師″と呼ばれるほど評判のよくない男性でジャンヌを〝マドモアゼル・ランジェ″ という名前の高級娼婦に仕立て上げます。
ジャンヌはというと現在の日本のモラルでは考えられませんが、少なくとも18世紀半ばという快楽主義のロココ全盛期、実は本人も結構楽しんでいました
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身分の高い男性たちからちやほやされ、贅沢な暮らしをして、十分幸せだったのです。。
(ヴィジェ・ルブラン夫人画、ジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人)
ジャンヌの顧客のひとりにフランス元帥リシュリュー公爵がおり、公爵を通してジャンヌはルイ15世と引き合わされることとなりました。
そのときジャンヌは花の盛りの25歳。対するルイ15世は妻を亡くしたばかりの60代の高齢。
ルイ15世はジャンヌの持って生まれた天真爛漫な性格と自由で快活な性格を愛し、ヴェルサイユ宮殿に住まわせることにしました
(フランス国王ルイ15世)
ジャンヌの性格ですが、彼女は底抜けに明るい性格をしていたそうです。
また以前の知的で野心的な寵姫たちとは違い、政治に関わらず美しいものにかこまれていれば十分満足という女性で、年老いたルイ15世は女性に癒しを求めていたようです
(ジャンヌが暮らしたヴェルサイユ宮殿)
1770年オーストリア皇女マリー・アントワネットがフランスへと輿入れしてきます。
身分制度を厳しく守る宮廷では地位の低い人から高い人に声をかけるのはマナー違反でした。
さらに娼婦や愛妾が大嫌いな女帝マリア・テレジアの影響を強く受けていたマリー・アントワネットにとってデュ・バリー夫人の存在を受け入れることができませんでした
ジャンヌはフランス王の愛を独占していたとしても、マリー・アントワネットは王太子妃で将来のフランス王妃となる人。
マリー・アントワネットから声をかけない限り、ジャンヌは挨拶さえ許されませんでした
(オーストリア皇女にしてフランス王太子妃、マリー・アントワネット)
マリー・アントワネットは約2年間声をかけませんでしたが、1772年1月ついに元高級娼婦ジャンヌにマリー・アントワネットが声をかけ、事実上王太子妃を屈服させる日がやってきます。
マリー・アントワネットはジャンヌに話しかけたものの、ジャンヌに対する冷たい態度は変わりませんでした。
(黒人の子供からコーヒーをもらうジャンヌ。)
ジャンヌは目が覚めるほど美しく、白いドレスが自分の透き通るような白い肌をさらに強調し、美しさに輝きを与えることを知っていたジャンヌはお気に入りのデザイナー、ローズ・ベルタンに白いドレスを何着も作らせていました
宝石にも目がないジャンヌはダイヤ、ルビー、サファイア、エメラルドなどをいたるところにつけていました。
腕の立つデザイナーのドレスを着て、宝石をふんだんにつけたジャンヌには29歳の成熟した妖艶な女な魅力を頭の先から足の先まで漂わせていました。
ジャンヌはもはや王妃の称号を持たない王妃に等しかったのです。しかしこれもルイ15世が健在だからこそ。
翌年の1774年4月、ルイ15世は天然痘に罹り、64歳で死去。
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31歳のジャンヌはヴェルサイユを追われ、ポント・ダム修道院に入る。
元来人がよくどんな環境にもすぐ馴染む柔軟性のあるジャンヌに最初は戸惑っていた修道女たちとも仲良くなります
どんなときも、どんな環境でも愛される人、それがジャンヌという女性だったのです。
ただものではありません
その後ルイ16世に許されたジャンヌは修道院を出てルーヴシェンヌの城主として華やかに暮らしていた頃、フランス革命が勃発。
ジャンヌはロンドンへと亡命しますが、革命家がルーヴシェンヌ城と宝石、美術品が押収されるのを知ったジャンヌはフランスへと戻ってきてしまいます。
(ルーヴシェンヌ時代のジャンヌの愛人ブリザック公爵ジャンヌより9歳年上の男性でした。)
人を疑うことをせず、物事を軽く考えるという欠点を持っていたジャンヌは、革命家たちに逮捕され、マリー・アントワネットと同じくコンシェルジュリー監獄に捕われます。
(ルイ15世の死後のジャンヌ・デュ・バリー夫人)
〝死の控え室″ と言われたコンシェルジュリーに入れたら2度と生きて出られない、と言われていましたがジャンヌはそこでも自分の持っている宝石のありかを教えるから助けてほしいと愚かにも訴えた。
お気楽な性格があだに…
(コンシェルジュリー内の牢獄にいるマリー・アントワネット)
けれどもマリー・アントワネット同様、ジャンヌの処刑はもう決定されていました。
マリー・アントワネットたち貴族は毅然として断頭台へと登りましたが、ジャンヌは恐怖のため取り乱し処刑台にのぼる勇気もなく、処刑人にあと1分待ってほしいと哀願
(処刑場へと連れて行かれるジャンヌ)
実は処刑人サンソンとジャンヌは知り合いで、必死に命乞いをしました。
ジャンヌは子供のように泣き叫び必死に命乞いをしました
その姿を見ていられなくなったサンソンは、ジャンヌの処刑を自身の息子に譲りました。
ムッシュー・ド・パリこと、シャルル・アンリ・サンソンは、まだジャンヌがパリの街でお針子をしていた時に付き合っていた、とされる。
シャルル・アンリ・サンソンはとてもおしゃれでハンサムな青年だった。
(処刑人はシャルル・アンリ・サンソン)
しかし間もなくギロチンの刃でジャンヌ・デュ・バリーの50年の人生は閉じた。
(当時の処刑ギロチンの様子、頭はセーヌ川に捨てられたとも)
なぜジャンヌは宝石にそこまで執着したのでしょうか?
宝石はルイ15世が亡くなっても
、自分の美しさが失せても変わらずに永遠に輝き続ける。
、自分の美しさが失せても変わらずに永遠に輝き続ける。
貧しいお針子から国王の公式寵姫になり栄華を極めたジャンヌ。
宝石こそが彼女の生きた証だったのかもしれません。
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売り子 関連ツイート
今回もピンク系追加してます(*´pq`)
準備まだ終わってないのですが
明日の仙コミよろしくお願いします!
忍べない忍者でイケメン隊長殿と売り子してます…♡
お手伝いでとらぶもの土方組も居るので是非、遊びに…
ちなこれは頒布物ではなくて、前回の割るで売り子してくれた某氏へのお礼に描いたもの。あと数日、ちゃっちゃか色紙描いていくぞい。 https://t.co/oB6CHFhYmB
売り子してんのかわかんないけどコゲさんとかうぉるくんとかSouくんに会いたい…